旧相馬家住宅つれづれ

なぜ旧相馬家の建物を守るのか?

2019年8月9日

旧相馬邸内をご覧になった方は、「これだけの規模の屋敷を保存維持するのは並大抵のことでなく、よほどの資産家でなければ不可能だ」とよくおっしゃいます。
私自身は、お金持ちでもありませんし、文化財を守ることに意義を感じるような立派な人間でもなく、ごく平凡な一市民でした。相馬家についても、「函館では珍しい全国的なお金持ちだ」ということをなんとなく知っていたにすぎないのです。

ただ、大学生時代から古い家に興味があり、そんな家を見るたびに、その家の歴史とか住んでいた人たちに思いをはせ、いろいろ空想をめぐらせていたことを記憶しています。やがて社会人になり、この町から離れていろいろな経験を積み重ね、50歳近くになって函館に帰り、起業してバブルを経験して、68歳の時だったと思います……忘れていた相馬家が取り壊されることを新聞で知ったのです。

冷やかし半分で、数人の知人と一緒に相馬邸に入らせていただきましたが、暗くよどんでごみが散乱し、荒れた邸内には人を寄せ付けない気配があり、まるで初代当主の相馬哲平が私たちのような民間人の立ち入ることを拒否しているようでした。

押し返されるように途中で引き返すのですが、また見たくなり訪れました。
そんなことが4、5回ありましたでしょうか、こんな化け物みたいな建物を百数十年前に建てた相馬哲平という人物はどんな人なのか興味がわき、自分なりに調べ始めたのです。

東北の海辺の寒村から行李一つで海峡を渡った28歳の青年が、付船業の商家に丁稚奉公し、4年目から主人の許しを得て小さな米屋を開業。36歳の時に遭遇した箱館戦争で、命がけの商機を得ました。飛び交う弾丸の中、荷車に買い占めた米や酒を積み、旧幕府脱走軍、明治政府軍ともに売りつけ、巨利を得て、後に北海道屈指の財閥となる糸口をつかんだのです。
40歳で北海道有数の豪商に成り上がった相馬哲平ですが、その生涯は質素な生活を貫き、晩年に数々の社会公共事業に手を差し伸べて、函館の大恩人と言われようになりました。相馬哲平の生きざまは、まさに自分が幼いころに夢見ていた冒険物語の世界でした。

今でも多くの市民が、哲平の街への遺産を利用して生活していることに気付いた私は、相馬哲平という人物に夢中になりました。いや、ほれ込んだといっても過言でないでしょう。
自分の少年時代の夢を実現した偉大な先人の屋敷、壊してなるものか!と思ったことが、保存に踏み切った大きな理由のような気がしています。

もう一つ、お話しするのも恥ずかしいのですが、保存に踏み切るに至った出来事がありました。
2008年春から何度も屋敷に足を運びましたが、保存運動は行き詰まり、ついに建物の運命を所有者に委ねざるをえなくなりました。最後に、所有者の許可を得て一人で見納めのつもりで屋敷内に入ったときのこと。10月末の午後、木枯らしの吹く肌寒い日でした。夕刻まで佇んでいた大広間があっという間に暗くなり、暗い天井から自分を見つめる光る眼を意識した途端に、恐ろしさで身動きが出来なくなりました。しばらくして、木枯らしが強く建物と庭の木々を揺さぶり、建物の軋む金属的な音が襲ってきて、無我夢中で外に飛び出したのです。
震える手でようやくカギを掛け、道路まで数歩歩み始めた時、相馬哲平の声を聞いたような気がしました。私は69歳でした。

今は、哲平の生き様の紹介を通じて明治期の函館商人魂を皆様に紹介し、明治から昭和初期の輝かしい函館の姿も紹介することに喜びを感じています。
勿論、修復過程の中で気が付いた建物の素晴しさ、技術、使われた建材、そこかしこに見られる優れた意匠等は、今まで見て来た商人の屋敷をはるかに超えたものです。

旧相馬邸は公開9年目をすぎ、間もなく10年目を迎えます。
最初に夢のまた夢のように感じた保存活動10年目が今、まさに目の前に来ました。全国の方々の熱い心が後押しをしてくれたからこそ、ここまで来られたのです。
旧相馬家は2018年12月に国の重要文化財の指定を受けました。

▲重要文化財指定後、これまでの感謝を込めて無料開催した「越前琵琶と松前神楽」の一幕

これから、「歴史回廊 旧相馬家住宅」として、100年、150年保存を目指して新しく出発いたします。新しい継承者についてなど、問題は次から次へと続きますが、残された私の責務は、文化財を守って後世に伝える熱い志を持った若者を見出し、継承していくことだと思っています。
どうか皆さん、一緒に旧相馬家を守っていく同志になってください。心よりお願いいたします。

2019年8月9日
旧相馬家住宅 東出伸司