相馬哲平伝

28歳で単身箱館に渡り、
函館発展の礎を築いた恩人の物語

28歳で開港間もない箱館(函館)に渡り、箱館戦争中も商いに徹し、数々の事業を興し北海道屈指の豪商に。神仏を敬い郷土報恩の精神で函館に多額の公共投資をした、初代 相馬哲平の歴史を紐解きます。篤志家の一面は、大火で焼け出された人々の復興支援として建てられた、国指定重要文化財 旧相馬家住宅でも存分に発揮されています。

相馬哲平伝

相馬哲平とは

自身の商才で巨万の富を成し、公共事業に私財を投じた函館の恩人

初代 相馬哲平は、開港したての箱館(函館)に夢を抱き28歳でこの地に渡ってきました。奉公人時代は昼夜問わず働き、わずか3年で自身の店を持つほどの努力の人です。その後、箱館戦争時に米の騰貴を見越し、命懸けの大勝負で巨額の利益を生み出しました。その後は金融業に転身し、ニシン漁への投資などを行い、一代にして全国の「金満家番附」に載るほどの豪商へ。
相馬哲平は、家訓に記したように神仏を崇敬し、普段は倹約に努め贅沢はしませんが、郷土報恩の精神から、多くの公共施設や神社仏閣、凶作救済資金などに多額の私財を寄付し続け、晩年には紺綬褒章を賜るほどに函館に貢献した人物です。初代没後も、代々の当主が「哲平」を襲名しています。

豪商 相馬哲平

豪商 相馬哲平

自身の商才を存分に発揮し、
89歳で人生の幕を閉じるまで走り続けた豪商

初代 相馬哲平は、越後国(現 新潟県)で次男として誕生。
28歳で開港して間もない箱館(函館)に渡り、山加岩船屋春蔵のもとで奉公人として生活しました。その間、夜も行商をして資金を貯め、30歳で米穀雑貨店を開業。
その後、箱館戦争が勃発した際、逃げ行く市民から全財産を投げ打って米を買い集め、自身は店に残り命懸けで米を守りました。このとき店の前に酒樽と柄杓を置いておくと侍たちは酒代を払って飲んだそうで、侍の律義さと哲平の商魂が伺えます。

戦争終結後、米価格の高騰で巨額の資金を得た哲平は、ニシン漁への投資と海陸物産商へと転身。
とりわけ漁業は大変な危険を伴うという理由で、銀行は漁師への資金融資をしてくれず、困惑する漁師に対し資金融資を行うと、噂が広がり本州からも融資依頼が殺到したそうです。
その後も順調に事業を務め、79歳で地元銀行の頭取に就任、82歳で相馬合名会社(現 相馬株式会社)を創設、85歳には周囲から推薦され貴族院議員に当選、また同年に発行された「金満家番附」では取締になるほどの豪商になっており、86歳で株式会社相馬商店(相馬合名会社とは別会社で、問屋業・金融業・漁業・鉱業等の経営を移したもの)を設立。
89歳で高龍寺に眠るまで、生涯を商人として波瀾の時代を駆け抜けました。

相馬哲平の功績

相馬哲平の功績

函館四天王や高田屋嘉兵衛同様
相馬哲平の社会貢献も絶大

初代 相馬哲平は、大変な資産家という側面のほか、晩年の家訓に残した内容どおりに神仏を崇敬し、倹約を徹底し家業にいそしんだ人物です。
他方、郷土報恩の精神の強い人でもあり、恩人への感謝を忘れないという気持ちは、奉公先だった岩船屋春蔵の屋印である「やまか」から、新店舗の屋印には「ちがいか」にして使ったというエピソードからも想像ができます。

事業で成功した頃から、函館の公共事業に積極的に貢献し始めます。
記録に残っている分を挙げるだけで、69歳時に元町高台にあった区役所を中央部に移転するための土地(宅地404坪)と建築費用の一部を寄付、71歳には日露戦争戦費に寄付。74歳のとき、哲平の住む函館西部地区全体がほぼ焼失するほどの大火が発生し、自宅と店舗が類焼したため、焼き出された市民を雇い、街の再建のために一級建材をふんだんに使用して、現在の国指定重要文化財 旧相馬家住宅を再建しました。
さらに自宅・店舗を焼失していながら、函館慈恵院への寄付、大火で焼失した「町会所」を「公会堂」(現・旧函館区公会堂)として新築する費用の大半を寄付しております。
78歳のときには、恩賜財団済生会に寄付し、翌年79歳から83歳までは国幣中社 函館八幡宮に毎年1,000円を寄進、翌年80歳には曹洞宗 高龍寺の宝蔵建立に寄進。さらに寄付は続き、第一次世界大戦が勃発した81歳のときは、北海道凶作救済金を寄付、続いて82歳には今日も使用されている鉄筋コンクリートの私立函館図書館書庫建設資金を寄付、83歳には大火後にずっとバラック小屋だった警察署の新築費を寄付、第1次世界大戦が終結した85歳のときには函館区救済米資金を寄付。
ベルサイユ講和条約が調印された年には87歳となっていましたが函館発展への志は衰えを知らず、英国製ポンプ自動車並び格納庫建設資金の寄付を行い、89歳で人生の幕を閉じました。

相馬哲平の生きざま

相馬哲平の生きざま

商機を見出す才覚を持ち、
篤志家として生きた努力の人

初代 相馬哲平は、次男として越後国(現 新潟県)で誕生。もともと相馬家は医者の家系でしたが、哲平が誕生した頃は「産神丸」(木造和船)を一艘所有した回漕業と綿屋の兼業で生計を立てていました。
家を継ぐ必要のない哲平は、安政6(1859)年に箱館(現・函館)・横浜・長崎の3港のみが国際貿易港として開港したことを一筋の光ととらえ、箱館に渡ったときは28歳。まずは同郷出身者で既に箱館で商売をしていた岩船屋春蔵宅に雇われました。

通常、日中に岩船屋の奉公人(住み込み労働)として働けば、あとは自由時間です。仕事から解放され遊びに行く同僚とは違い、夜は春蔵氏の許可を得て自分で考えて行商を行うという働きぶりでした。そして岩船屋からの給金と行商の儲けをすべて貯金し、箱館に渡ってから足掛け3年というスピードで、米穀商を開業し独立。その後、明治元(1868)年に勃発した箱館戦争に商機を見出し、全財産を投じ、逃げ惑う市民から米を買い、戦後の米価高騰により巨万の富を手にしました。哲平の生涯の中で唯一行った命運をかけた大勝負でした。
その後、ニシン漁の投資と海陸物産商に転身し、北海道随一の豪商へ。着実に商機を見出す才覚には目を見張るものがあります。
もともと受けた恩を忘れず、神仏を敬い、郷土報恩の精神を持つ哲平は、晩年になると篤志家として函館の公共事業等に積極的に寄付を行い、生涯の幕を閉じるまで続けられました。
また、美智子上皇后陛下のご実家である正田家と親交があり、美智子さまが幼少のころ、ご両親に連れられて相馬家を訪問されたこともあったそう。礼節や品格と篤志家の精神を重んじる相馬家では、邸で働く女中について、家柄や人柄・教養などを慎重に調査したといいます。
その結果、相馬家で女中をすることは大きなステータスとなり、良家との縁談が舞い込むため、若い良家の娘はこぞって相馬家への女中奉公を申し込んだという話が残っているそう。当時の相馬氏が、多くの市民から一目置かれていたことが分かるエピソードです。
初代 相馬哲平の生きた江戸時代から大正時代にかけての函館は、外国への開港、国内外の戦争、度重なる函館大火など多難な時代でした。
そのような時代をたくましく駆け抜け、函館に多大な恩恵をもたらした初代 相馬哲平は、自身の経験から導き出した教訓を基に6か条の家訓を残し、この家訓は、2代目以降の相馬哲平に受け継がれました。

一、神仏を崇敬すること
一、勤倹を守り、贅沢をせぬこと
一、家業を大切にすること
一、借金をせぬこと
一、投機に手を出さぬこと
一、政治に関係せぬこと

商人の魂を後世へ

商人の魂を後世へ

函館発展に寄与した
商人 初代 相馬哲平の心意気

松前藩や函館には古くから近江商人、江戸商人が行き交い、商人文化や精神がありました。各地から人が集まり商売で成功した多くの人物が自身の富や栄誉だけを追求するのではなく、地域社会の発展に貢献していました。哲平の米穀店から約2丁離れた場所にあったのは渋田利右衛門の店。渋田は商売だけでなく読書を好む教養人で、江戸城無血開城に尽力した勝海舟のスポンサーであったことが分かっています。このように函館商人は、自身の富や栄誉などに走らず、地域社会への貢献や国益までも自分事として考え行動していました。

このような函館商人の魂が宿る旧相馬家住宅は、現代に生きる我々にとっての大きな指針であり、後世に語り継ぐべき偉大な財産です。また函館の大恩人である相馬哲平の邸を守り続けていくことは、函館市民から相馬哲平への恩返しになりましょう。さらに、地域社会貢献にとどまらず国の行く末までも考えて行動した、函館商人の魂を受け継ぎ続けるシンボルとして、大切に保存されるべき存在です。

相馬哲平の生涯

1833年(天保4年) 0歳 越後国荒井浜(現・新潟県胎内市荒井浜)で二男として誕生
1861年(文久元年) 28歳 箱館(現・函館)に渡り、岩船屋春蔵宅で奉公(住み込み労働)
夜は春蔵氏の許可を得て行商も行い、3年後には米穀商を開業
1872年(明治5年) 39歳 金融業に転身。後に北海道一の豪商へ
1902年(明治35年) 69歳 元町高台にあった区役所を中央部に移転するための土地(宅地404坪)と建築費用の一部(当時:3,010円・現在:約6,000万円強)を寄付 (総工費 当時:11,988円・現在:約2億4,000万円弱)
1904年(明治37年)

1905年(明治38年)
71歳

72歳
日露戦争戦費に寄付(当時:約2万6,000円・現在:約5億2,000万円)
(内訳:戦費へ10,000円、陸軍恤兵部(じゅっぺいぶ)へ10,000円、海軍恤兵部へ5,000円、帝国軍人後援会へ1,000円、函館出征軍人家族救恤費(きゅうじゅつひ)へ350円)
1908年(明治41年) 75歳
  • 前年の大火で焼失した自宅を再建。
    再建にあたり、焼き出された市民を雇い、街の再建のための雇用促進を実施
  • 函館慈恵院へ寄付(当時:1万円・現在:2億円)
  • 大火で焼失した「町会所」を「公会堂」(現・旧函館区公会堂)として新築する費用の大半を寄付
    (当時:5万円・現在:10億円)(総工費 当時:58,000円・現在:約11億6,000万円)
1911年(明治44年) 78歳
  • 皇太子殿下(後の大正天皇)行啓の際、公会堂(現・旧函館区公会堂)が御宿所となる。
    哲平は公会堂に召され、謁を賜い御下賜品をいただく
1912年(明治45年/大正元年) 79歳
  • 大正5年まで旧国幣中社(現 函館八幡宮)に毎年1,000円を寄進(現在:約2,000万円)
  • 地元銀行の頭取に就任
1913年(大正2年) 80歳 曹洞宗 高龍寺の宝蔵建立に寄進(当時:5,800円・現在:約1億1,600万円)
1921年(大正10年) 88歳 逝去(89歳)。高龍寺に眠る